るさと津野は、福岡県の南東部、英彦山(南岳1,199m)の山麓、今川上流部の山間部に位置しています。大分県とも接しています。津野を南北に流れる今川の水はとても綺麗で、緑も豊か、秋の紅葉と、春の桜が大変美しい所です。津野の中心には、北九州・行橋の水がめの油木ダムがあります。自然豊かなふるさと津野の歴史について調べてみました。





 ズイベガ(随辺)原遺跡・下井遺跡・後遺跡・惣仏遺跡などが津野で発見されています。曽畑式土器や石器(黒曜石など)が多く出土しています。鹿、猪の狩猟を中心とした生活のようで、行動範囲も大変広かったようです。




 津野の名称については、古い言い伝えがあるそうです。上津野村・下津野村という2村が、始まりとなっているようでした。
狩猟に加え農業・林業が主要産業となってくるようです。
 また彦山権現(修験道の山伏)との繋がりも深く、英彦山を中心に48箇所の大行事社(高木神社)がある中に、上津野村には、日岳(ひだけ)と上津野高木神社があり、古くからお祭りなどが行われていました。下津野村には、犢牛岳(こっといだけ)と下津野高木神社があり、同じくお祭りなどが行われていました。現代においても、神幸祭、御神楽、宮日祭などが行われています。




 天正15年(1587年)
豊臣秀吉の九州征討の折、岩石城は秋月種長の臣、芥田悪六兵衛と熊見越中守が守っていました。寄手の蒲生氏郷、加藤清正、前田利家等の諸軍と激戦の末落城し、毛利勝信が領主となりました。

 慶長5年(1600年)
関ヶ原合戦の時、黒田孝高の占領統治する所となり、同年12月細川忠興が領主として移封されました。

 寛政9年(1632年)小笠原氏が領主となり240年後の明治維新まで藩政が続くことになります。


  元和 8年(1622年) 津野人口 622人(家人畜御改帳)
  元和 9年(1623年) 徳川家光が第三代将軍となる
  寛永19年(1642年) 寛永の大飢饉
 全国(〜1643年)
  宝永 4年(1707年) 富士山宝永大噴火

  享保 2年(1717年) 津野人口 822人
  享保17年(1732年) 享保の大飢饉 中国・四国・九州地方
  宝暦 6年(1756年) 津野人口 958人

  天明 2年(1782年) 天明の大飢饉
 全国(〜1787年)
  天保 4年(1833年) 天保の大飢饉
 全国(〜1839年)
  嘉永 5年(1852年) 津野人口 1402人
(小笠原藩調査)
  慶応 3年(1867年) 大政奉還
  慶応 4年(1868年) 大行事社を高木神社と改称




 明治政府が出来ました。上津野村も下津野村も、
廃藩置県により、小笠原藩から小倉県へと変わります。その後、明治9年(1876年)福岡県となっていきます。津野の人口も順調に増えています。そして、勉強を習う場も寺小屋から、ついに小学校となります。
 また、明治元年(1869年)の
神仏分離令により、古代より神仏習合とし続いていた彦山権現の修験道も廃止されました。


  明治 元年(1869年) 廃藩置県  (豊前国→小倉県)
  明治 元年(1869年) 
神仏分離令 (英彦山修験道の廃止)
  明治 7年(1874年) 上津野小学校が開設
  明治 9年(1876年) 福岡県が誕生する
  明治10年(1877年) 西南戦争
  明治11年(1878年) 津野人口 1613人(耕地宅地戸口調)
  明治19年(1886年) 油木峠及仏ノ塔隧道開通
  明治20年(1887年) 上津野村・下津野村が合併
  明治23年(1890年) 津野村役場を新築落成
(建坪22坪)

 明治20年(1987年)上津野村・下津野村が合併し、一つになり津野村が誕生します。同年に仮村役場、巡査駐在所も設置されます。
 明治22年(1989年)に市町村制施行、初代村長が決まりました。明治の大合併です。この時は近隣の多くの共同体も、「村」(添田村・彦山村)でした。



  明治27年(1894年) 日清戦争開戦
  明治28年(1895年) 伊田駅開業
(豊洲鉄道株式会社)
  明治29年(1896年) 油木隧道の掘り割り開通
  明治32年(1899年) 避病院が落成
  明治33年(1900年) 三井田川炭鉱創業
  明治37年(1904年) 日露戦争開戦

  明治39年(1906年) 津野人口 2165人
(村是調査事績)
  明治44年(1911年) 町制施行により添田町ができる
  大正 3年(1914年) 養蚕飼育所設置
  大正 3年(1914年) 
第一次世界大戦開戦
  大正 8年(1919年) 下津野信用購買組合創立
  大正11年(1922年) 津野人口 2153人(戸籍事務統計)
  大正12年(1923年) 電灯事業(津野村初めて電灯がつく)

  昭和 2年(1927年) 津野郵便取扱所開設

  昭和12年(1937年) 日中戦争開戦
  昭和14年(1939年) 第二次世界大戦開戦

  昭和15年(1940年) 津野人口 2166人
(国勢調査)
  昭和17年(1942年) 彦山村と添田町が合併

  
昭和20年(1945年) 第二次世界大戦終戦
  昭和20年(1945年) 二又トンネル爆発事故
  昭和22年(1947年) 津野村立津野中学校 開校
  昭和22年(1947年) 
第一次ベビーブーム(〜1949年)
  昭和23年(1948年) 農業会を改良して農業協同組合となる
  昭和28年(1953年) 西日本水害
  昭和29年(1954年) 高度経済成長(〜1973年)

 昭和29年(1954年)から昭和48年(1973年)にかけて、日本経済は高度経済成長を遂げます。石炭需要もピークを迎えますが、その中で北九州工業地帯での水不足が深刻になってきます。
 福岡県は、北九州工業地帯の水不足解消と、
昭和28年西日本水害など度重なる水害から今川流域地域守るための治水を併せ持つ多目的ダムの計画を始めます。



 昭和30年1月に、津野村と添田町が合併しました。昭和の大合併です。添田町の人口は、2万7658人となりました。この時の、津野の人口は、2671人(国勢調査)です。

  昭和30年(1955年) 津野村と添田町が合併
  昭和30年(1955年) 津野人口 2671人(国勢調査)
  昭和35年(1960年) 東京タワー完成

  昭和36年(1961年) 油木ダム計画を発表
  昭和37年(1962年) 原油の輸入自由化
  昭和38年(1963年) 津野人口 2245人
  昭和39年(1964年) 東京オリンピック
  昭和39年(1964年) 三井伊田鉱業所閉山

 昭和37年(1962年)
原油の輸入自由化をきっかけに、石炭から石油・天然ガスへ王座を移すこととなり、筑豊の炭鉱も閉山していくこととなります。(エネルギー革命)







 昭和40年(1965年)に、今川総合開発事業として、油木ダムの建設が始まります。この時、445戸の30%と公共施設等がダムに沈むことになり津野を離れていく方も多くいました。昭和40年10月1日の津野人口は、2011人との記載がありました。油木ダムの建設により、155戸の民家と、津野小学校・津野中学校・添田町役場津野支所・郵便局・駐在所・消防支所・公民館・農協支所が水没することになりました。

  昭和40年(1965年) 津野人口 2153人(国勢調査)
  昭和43年(1968年) 油木ダム着工
  昭和46年(1971年) 油木ダム竣工
  昭和46年(1971年) ダム建設に伴い津野小中学校移転


  昭和48年(1973年) 第一次オイルショック
  昭和58年(1983年) 津野小学校創立百周年記念事業
  昭和58年(1983年) 
任天堂ファミリーコンピュータ発売
  平成 3年(1991年) 湾岸戦争
  平成 4年(1992年) 津野小学校山村留学制度実施
  平成10年(1998年) 第一回上津野収穫祭

  平成13年(2001年) アメリカ同時多発テロ
  平成14年(2002年) 学校週5日制導入

  平成14年(2002年) 
添田町立英彦山小学校閉校
  平成14年(2002年) 第一回油木ダムを美しくする会
  平成17年(2005年) 福岡県立田川商業高等学校閉校

  平成19年(2007年) 津野山村留学センター開所
  平成22年(2010年) 添田町立津野中学校 閉校
  平成22年(2010年) 津野人口 567人
  平成23年(2011年) 山村留学休止
  平成23年(2011年) 東日本大震災
  平成26年(2014年) 第一回油木ダムさくらウォーキング
  平成29年(2017年) 九州北部豪雨

 以上のように、ふるさと津野の歴史を調べてみました。津野の歴史と人口、その時代の日本での出来事を少し合わせて掲載しています。
 油木ダム建設後の人口減少と少子高齢化による過疎化が深刻な状況になっていますが、新たな取り組みも始まっています。これから先、どのような歴史が出来ていくのでしょうか。








添田町立津野小学校
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